◎ 一分一厘んの間違いのない神様の働きとわからして頂く信心。 陰陽、兼ね揃うた信心。。。。
昭和四十四年六月四日 夜の御理解
久留米から、あのーカノウダさんて方がお参りをしてきますが、今日も午前中もお参りをしてきましたが、また夕方も参ってきました。それがあの、あるところへですね、勤めておりましたが、たいへん都合が悪くて三カ月ぐらいで現在のところに変わっております。現在のところに変わっておるところも、昨日でしたかね、女ですけれども、あの運転が出来ますから、まあ自動車の運転をしておられますが、ちょうど久留米で事故を起こしましてね、それがそのやっぱりその自動車は大破したそうですけれども、まあー本人達はかすり傷せずにおかげを頂いております。けれどもお店のほうでは、そのことが、まあ色々にあって、もうその店をいかにも今にも辞めれといわんばかりに言われると、でなかったらその家が、この善隣会の信心をされるそうです。それで一週間ばっかりですかね、八千円かかるそうですが、あのー行けと。金も向こうから出してやるというのじゃなくてから、自分の金で行ってその、修行してこいとこういったようなふうに言われる。
ほいで私は申しました。結局、進退がここに極まったいったようなふうにして夕方ここに参ってきました。それでその神様のおかげを頂いて、そこに店にも移らしてもらい、そこで働いてちょうど三カ月間、そしてそこで、そういう事故を起こして、まあお店にもご迷惑をかけるようになり、それで、まあ、いかにも、もう、その店にも要らんようにも言われる、かと思うと自分の、まあ金光様とこう思うておるのに、その他の宗教へ変われというようなことをいわれるので、どうしたもんだろかというわけです。それで私は辞めれといわれるなら、辞めても良かろうと。
ね、また、お金も無いのにそういう他の宗教へいって、金の八千円も使うてこんならんといった、こなければならんごたるなら、もう辞めさしてもらう腹で、話されたらいいだろうて申しましたけれども、結局、そういう場合ですね、神様の一分一厘間違いのない働きが、そのようにしてあっておるんであるから、というその思い込みを持つことが、信心さして頂く者の一番大事なとこだとこう思うんですね。
神様からどこどこへ勤めることをお許し頂いて三カ月働いた。働いたらそこで事故を起こした。それでそこでこうまた、そこを進退伺いしなければならないといったような場合でもですね、神様の働きはも一分一厘間違いなくあっておるんだとして、そこんところを頂いていくということが一番間違いのない本当の頂き方なんですけれども、信心しておってどうしたことであろうかとか、お伺いをしてからまたどうしたことであろうかと、いうようにまでは、本当な所にいけない。じゃ神様のご都合というのは本当のおかげへのひとつの飛び石づたいかもしれないし、そのようなことによって、色々と信心、いわば、めぐりのお取り払いを下さっておかげへの道を歩かせて頂いておったに致しましても、そこんところがですね、神様のお働きは一分一厘間違いはないのだからとしての信心がね、出来なければならない。
先程、堤さんがお届けされますのに、今朝方からお夢を頂いたと。どうも山陰線、山陽線というのがありますね、その山陰線と山陽線の別れ道のところが、こう海になっておってそこんところを通らなければ、そのあるところへ行けないとこういう。ところがその海のほうを見ると、大荒れに荒れておって船が一隻浮かんでおるけれども船がもう大揺れに揺れておると、いうようなお知らせを頂いたとこういうのです。同時に又、ここのお広前で私が、光昭にその、光を点けなさいといいよるけれども、光がなかなかつかないのを堤さんがそんなら私が点けましょうというて、光を点けようとしておるところを頂いたとこういう。
私はその思うのですけれども、信心は色々の角度からそこんところをマスターしていくというか、自分のものにしていかなければばならないと、どのような場合でも神様におすがりをして、お願いをして起きて来ることは、ね、それが苦い嫌なことであっても、痛いことであっても神様の働きとしては一分一厘間違いない働きがあっておるんだとして頂けれる信心。
それにはどうしてもやはり、この信心の度胸を作らなければいけない。それにはね、私共が陰陽兼ね備うた信心を日ごろ頂いておかなければ、力はつかない、信心の度胸も出来ない。山陰、山陽というのは修行のことであろう。陰陽というのは陰陽の道のことであろうと。まあいうならば、天の、天地の、いうなら道理ということになりましょう。その天地の陰陽の内容というものがです、私共の信心の内容としてもなからなければならない。
陽のきつい人もありゃ陰のきつい人もある。そこで自分にかげておるほうを努めさせてもろうて、そこに陰陽の信心が自分の信心兼ね揃うていくような信心から、まあ信心のいわば、信心の度胸も出来る。そこから例えば、どうでもこの船に乗らなければ向こうに行けないのですから、その船に乗れるためには、やはり、信心の度胸が必要だと、ね。さあここに光を点けよと、まあここにお広前の光りになろうというてもです、やはりあの力がなからなければ光りにならない。それは一生懸命の修行の姿が尊い、とにかくあの人の信心を見ておると、もうこちらのほうまで生き生きしてくるといったような信心も勿論。同時にそういう信心さして頂いて、もすでにそれは光りになっておるんですね。そういう信心がほんとにおかげを受けて、成る程ああいう信心しござったが、ああいうおかげを受けられたといったようなおかげの光を灯さしてもらうということがです、ね、お広前全体の光とも明かりともなると、とにかくお広前の光りになろうといったような願いを持って、お互い信心さしてもらわなきゃいけません。
それにはこれだけは今、私申しますようにどのような場合であっても、どのように御神意頂いて、その行うておることが、例えば、自分に都合の悪いことになっても、神様の働きとしては一分一厘間違いない働きの中にあるんだという頂き方。その思い込みを作っていくこと、同時に私共の信心にかげておるもの、ね、陰がげておるなら陽を、陽がかげておるなら陰をというふうにです、その陰陽の信心ということは、またたいへん色々難しいでしょうけれども、兼ね揃うた、いわば信心をさしてもらう、ね、そこから私は家の光ともなろう、お広前の光ともなろう、いうなら道の光にならせて頂けるようなおかげを打ち立てていきたい。そういう願いを立てなければいけんのですね。どうぞ